第1回目は、女性記者たちが、その波乱に満ちた避難経験やザ・ロードに参加することで掴んだ新しい希望について語る。(ザ・ロードの詳細はこちらから)
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かつて私たち家族は、シリア南西部の都市ダルアーで平和に暮らしていた。
だが、2011年にシリア内戦が勃発。それからは兵士だけでなく、子どもや老人まで銃弾に倒れていった。戦況が悪化の一途をたどるなか、身の危険を感じた私たち家族は、同年、幼い子どもたちを連れて隣国ヨルダンに避難。シリア国境にほど近い場所にある、ザータリ難民キャンプに身を寄せた。
その当時、私の夫はアサド政権率いる政府軍に拘留されていた。生きているのか死んでいるのかもわからない夫を、私はヨルダンで8ヵ月待った。祖国から遠く離れたここ、ザータリ難民キャンプの仮設テントで、私は誰とも話すことなく子どもたちと孤独な日々を過ごしていた。
そんなある日のこと。追い打ちをかけるように悲劇が訪れた。夫が死んでいることがわかったのだ。辛く、悲しかった。
だが、現実は待ってくれない。幼い子ども達を養うため、私は仕事を見つけて働かなくてはならなかった。来る日も来る日も仕事を探して歩き回ったが、未亡人ができる仕事は娼婦ぐらいしかない。
数ヵ月後、やっとの思いで手にした仕事は、ウェディングドレスのレンタル業手伝いだった。収入が得られて家族を支えられるようになったが、私が孤独なのは変わらない。
満たされない日々を過ごしていたとき、ザータリキャンプで発行されている月刊誌「ザ・ロード」が、ジャーリスト養成ワークショップを開催することを知った。
私はすぐにそれに飛びついた。そして、ワークショップに参加した後に同誌で記事を書くようになった。
ワークショップでは記事の執筆とインタビューのやり方を学び、情報の客観性と信頼性を保持することがいかに大切かを叩き込まれた。いまでは本を読み、インターネットを使いこなすことで、情報収集に励んでいる。
そして、「ザ・ロード」を通して多くの友人ができた。いまの私はもう孤独じゃない。
私は、ジャーナリストの仕事を心から愛している。
内戦が終結し、シリアに帰ることができてもこの仕事を続けていくと思う。
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「絶望」に陥りやすいこの難民キャンプで、私はいつもそれに抵抗しようとあがいていた。
ジャーナリズムこそが、夫からの暴力に苦しむ女性たちを救う最良の方法だと、私は直観的にわかっていた。
だから「ザ・ロード」のジャーナリスト養成ワークショップに参加したのだ。
難民であること、そして難民キャンプでの過酷な生活によって、男たちは激しいストレスを募らせる。
そして女たちは、その鬱憤のはけ口となるのだ。
夫は些細なことで激怒し、暴力を振るい、暴言を吐いて、それで問題が解決したと勘違いする。
彼らは、女性が家事や子育ての面で家庭を支える、かけがえのない存在であることを忘れてしまうのだ。
私の知り合いのオム・アフマッドも、夫の暴力の犠牲者の1人だ。私は彼女が泣き叫んで助けを呼ぶ声を聞いた。
ジャーナリスト養成ワークショップを受けたおかげで、
私はいま自分の書いた記事によって女性たちの声を伝えることができる──
私はそれに大きな喜びを感じている。
私はこれからも、そしてシリアに帰還してからも1人でも多くの「オム・アフマッド」を救いたい。
このザータリ難民キャンプに住む人々が、私の書く記事によって
女性への暴力を根絶することに協力してくれること──それが私の願いだ。
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午前4時──。ザータリ難民キャンプに暮らす人々は、まだ暗いうちからモスクに集まり、祈りを捧げる。
そして夜明けとともに、キャンプはどんどん活気づいてくる。
「シャンゼリゼ」と呼ばれる目抜き通りには次々と出店が立ち、
焼き立てのホブス(シリアのパン)を買い求める人々で賑わいを見せる。
家の台所では女たちが朝食の準備をはじめ、濃いアラビック・コーヒーの香りが立ち込める。
ザータリ難民キャンプの1日が、またはじまるのだ。
The Road ×クーリエ・ジャポンの記事はこちらからもご覧いただけます。
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